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Thinking⁂Amphibia

某大生物学徒の日常とか

『意識高い系』は悪者か

『意識高い』

僕を含む10代から20代の広い層が用いるこの言葉の意味は広い。
この言葉を大学で使うと大体率先して『研究』『勉強』をしていたり、セミナーに行ったり、留学を計画していたり―それどころか先生に質問に行くといった行為も含む―少なくとも見かけ上は優秀だったり、積極的に何かの活動に打ち込んでいる学生に対していう事が多い。
しかし、少なくとも『見かけ上は』の話である。実際の所この言葉にはネガティブなイメージが付きまとう。
何故なのだろうか。
このことについて(あくまで)個人的な見解を今回は述べたいと思う。

意識高い系 - Wikipedia
日本版wikiでこの項『意識高い系』の項を読むとそれは

『前向き過ぎて空回りしている若者』
『主にネット上で自分の経歴や人脈を演出し、自己アピールを絶やさない人』
『自分を過剰に演出(いわゆる「大言壮語」)するが中身が伴っていない若手』

と書かれている。
が、これはここでいう意識高い系とは少し異なる。
何故なら僕の周囲の彼らが言う『意識高い系』の中には極めて優秀な人々も含まれており、この言葉には妬みの意味が含まれている。
つまり『意識高い系』という言葉は若者の対立を生んでいるとも言えるのだ。

この問題を取りあげるにあたって、僕は僕を含む現代の若者を『優秀な人々』『努力している人々』『喪失した人々』といった層に(一応大卒予定としておこう)を区分することを試みたい。

『優秀な人々』は文字通り、大学などの教育機関で優秀なスコアを獲得し、将来が約束された層を指す。
『努力する人々』は自分のやりたいことが少なくともある程度明確であり、少なくとも何かしら自信を持っている分野が存在している層である。
『喪失した人々』は何らかの形で自分自身のアイデンティティを喪失した人々である。

一番後者の『喪失した人々』については僕が思うに現代の若者の大多数を占めており、上のように綺麗に分割できないとも考えられるのでここでは議論しない。また別の機会に議論するとしよう。


だがしかし、経験からこれだけは言える。
当然だと思われるかもしれないが
現代の若者は『意識高い系』をそれぞれの層での意味は若干異なるにせよ、軽蔑の眼差しで見ているのである。
ただ単に自己アピールをしたい、承認欲求が強いだけでは非難されて当然だと思うからだ。
しかしながら、本当の問題は
『優秀な人々』や『努力する人々』によって『意識高い』行為そのものが非難されることによって『喪失した人々』がそういった行動自体を悪と見なし、自分たちも向上心のないまま失敗し、人生に何の希望も見いだせなくなったままになってしまうことである。

僕は『意識高い』という言葉に対して何かしらのネガティブなイメージが付きまとうのは僕を含む多くの若者が自身のアイデンティティを喪失しているからだと思う。
自分のやるべきことはわかるが、やりたいことがわからない、しかし何をしても失敗する気がする、失敗するのが怖い、意識高いと思われるのが怖い......喪失したがない人々はこういった人々を馬鹿にしてはないだろうか。
そして『喪失した人々』も『意識高い』行為の重要性を軽視するばかりか、『ひとまずの計画性をもってまずは色んな経験を積む事』やってはいけないことと意識していないだろうか?僕はSNSや実生活でそう感じざるを得ないのである。

繰返し強調するように向上心のある行為それ自体僕はネガティブな意味で捉えられるべきではない、と僕は考える。

何故なら言うまでもなく意識高い行為そのものは自らのアイデンティティを発見することに必要不可欠であり、そして自分自身の生きる意味、楽しみを見出すのにも必要な要素の一つなのだ。
どうかこのブログを見た『喪失した人々』が『意識高い』という言葉の抑圧から少なくとも解放されることを『喪失していた人』の一人として僕は切に願っている。
この問題についてはまた次の機会に書こうと思う。
長文拙文失礼しました。